風さんの曲に限らず、邦楽の耳に残りやすさって言うと、やはり歌詞のインパクトが大きいと思う。
それは、私が日本人だから。
メロディーと一緒に耳に入ってくると、メロディーに引っ張られて、歌詞が切り取られることがあるんじゃないだろうか?
だから、サビに使われた言葉や言葉自体の刺激性で、その曲全体をイメージしてしまったりする。
何しろ、歌は、聴いてなくても聴こえてくる。
歌詞を全て理解しなくても、曲は流れて終わる、繰り返される。
音楽の気持ち良さ、あるいは気持ち悪さが、印象的な一部の歌詞に象徴されて、強烈に耳に残る。
外国語を理解しないで聴く洋楽のサビが、日本語の詩の朗読よりも、耳に残るように。
そこにさらに理解可能な言語が加わるなら、聞き手の最大限の都合で解釈されるのは当然だよね。
そういうものだと思う。(文学でさえも)
風さんも、”死ぬのがいいわ”の海外ヒットに関して、歌詞の解釈は聞き手に委ねると、どうとでも取ってくれていいと言っていた。
やはり、音楽っていうかグルーヴ感ありき、なんだな。
その上で、語感も含めての言葉の力を借りるのは、副次的な、うれしいおまけ付きってことでいいんじゃないか?
私は、風さんが使う日本語を理解できて、ホントに幸せ、神様に感謝する。
岡山弁ネイティブでないことが悔しいくらい。
つまり、ここは問題なんだが、私は、風さんの音楽というよりも風さん自身に魅了されちゃってるんだ。(今、納得した)
音楽で表現される世界は根源的で、文学のそれより器自体が一回り大きいようだ。
音楽の力は言葉をはるかに超えるということ、地球規模。
より原始的なものだとも言えるかな、宇宙規模。
やっぱり藤井風さんは、宇宙と交信してるな。